2011年05月14日

被災地にて(その8)大川小学校再開へ向けて




※津波に巻き込まれた児童の遺留品



宮城県石巻市立大川小学校。


全校生徒108名の内、


死亡した児童68名、


今なお6名の児童が行方不明のままである。(※5月13日現在)


震災発生当時の報道を見て、被災地へ入ったらどうしても訪ねたい、


子どもたちに会って励ましてあげたい。


そのようなおもいを漠然と抱えながら被災地滞在終盤に訪ねる心づもりであった。


仙台市内に所在するものとばかり思っていた同小学校、


石巻市内コンビニ駐車場の片隅で一夜を過ごし、


夜が明けて調べた所、ちょうど現在地の石巻市立だと知り、意を決して行動へ。


震災から一ヶ月余経過、学校も再開し、生き残った子どもたちも再登校していることだろう。


場所を何とか特定し、どうにか子どもたちとも会えるかな、という気持ちで現場へ到着。



そこで見たのは荒れ果てた校舎。





いるはずの子ども達が、いるわけがない光景。




茫然としながら、堪えきれない涙が溢れてきます。



学校名が記された碑の前で、


子どもたちに食べてもらおうと、沖縄から持ってきたサーターアンダギーをお供えし合掌。



目頭と胸の中がとっても熱くなる中、冷静に当たりを見回す。



めちゃくちゃに荒らされた学校敷地。




剥き出しになった教室。



本当に酷すぎる。


3月11日当日、午後の授業中に震災発生。


一旦校庭に集められた全児童をどのように避難させるか、


学校のすぐ裏手に山があり、そこへ避難する案も出たが、


かえって土砂崩れに巻き込まれる危険性があるのではとの判断で、


600メートル程先にある高台へ徒歩で避難することになった。


列になり、先生に誘導されて避難場所への移動中、


学校から道を挟んですぐを流れる北上川から押し寄せた大津波は、

河口から押し寄せてきたまま、もろに小学校に襲いかかったばかりか、


無情にも歩いていた児童・教師を呑み込んだそうだ。


その後どうなったのか、何も分からないまま学校を訪れたのだが、


この惨状にいかんともしがたく、ショックを抱えたまま学校を離れる。



助かった児童や先生達と会うことをあきらめ、仙台へ向かうしかないと思いつつ、


ふと道路脇に「河北地区社会福祉協議会→右折」と書かれた看板に目がいく。


迷わず社協へ飛び込み、大川小学校のみなさんの所在を尋ねた所、

そこから2キロ先の、難を逃れた別の小学校を間借りしているとのこと。


ようやく情報を入手できたお礼を告げ、車を再び走らせる。




辿り着いた場所は飯野川第一小学校。


同校職員室を訪ね、報道を見て沖縄から激励にきた旨事情を告げ校舎内へ通してもらう。


二階の間借り教室、大川小学校臨時職員室となったその部屋で、


柏葉校長先生とのご対面。


当時のお話を聞かせて頂いた後、


ダンボールに入ったサーターアンダギーを手渡すことができた。


気になる子どもたちは、明後日から再登校が始まり、

しばらくは飯野川第一小を間借りしてお世話になるとのこと。


「その時に、坂井さんが持ってきたサーターアンダギーを、子どもたちに分けて食べさせましょうね、本当にありがとうございます。」


気疲れていた様子の校長先生の笑顔に、


これからの大川小学校再生へ向けての希望が垣間見えた気がしました。


生存した34名の生徒中、22名が学校へ復帰するとのこと。
(※2日後、沖縄に戻って見たニュース番組で、「大川小学校児童、登校再開」のニュースを見て再び感極まった、本当に嬉しい限りです。)




みんなの願い、



心に傷を負った子どもたち、


この震災のショックを必ず乗り越えて、強くたくましく育っていってほしい。



みんなのおもい、




子どもは国の宝です。





那覇市議会議員
坂井浩二


被災地にて(その8)大川小学校再開へ向けて

※後日、私に届いた大川小学校からのお礼状。
これからも応援します。



Posted by 坂井こうじ at 00:58│Comments(0)
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